地下室の手記

何処にも行けない

9/11

長らく放置していた。書き記すべきことがないのだ。いや、これは言い訳だろう。確かに特筆すべき事柄はない。しかし言語化すべき経験、言語化しなければならない経験はある。これは何も珍しい経験とか重要な経験という意味ではない。僕はあらゆる経験を現在進行形で言語化することがある。経験が文章として表出されることが極めてnaturalに感じられるような気分、そういう気分になるときがあるのだ。テクストの材料はどこにでも転がっている。要するに、僕はただ怠惰な人間なのだ。

 

驚くほど物理の勉強をする気にならない。何故だろう?自分が物理学というフィールドにおいて意義ある仕事を為すことに対して一種の諦観を抱きつつあるのかもしれない。まだ始めていないにも拘わらず。もっとも、その「意義ある仕事」とやらを為したところで何の意味もないのだが。こんなことでは何をやったって食べていくことができないに決まっている。僕は何をやっているんだ?

 

9時前に起床した。いつものやりきれなさから抜け出すまでに30分。支度をするのに30分。10時に家を出て駒場まで歩いて行った。BGMはMr.Childrenがメイン。半分は自分と同じ世界で、残りの半分はどこか別の世界で響いているような歌声がいい。いつもの桜井和寿だ。

駒場まで約1時間。書籍部の前のベンチに座って『海辺のカフカ』を読んだ。15歳の少年を覆う影のような不安と老人を待ち受ける得体の知れない未来はあるものの、物語は基本的には明るい。僕にはそう感じられる。少なくともセリーヌよりはずっと。『夜の果てへの旅』には何の救いもなかった。あらゆるものは否定されていた。まるで僕の生き方みたいじゃないか?

 

自転車を回収して永福町まで出たあと、井の頭通りをひた走って吉祥寺に来た。眼科で定期検査を済ませてから吉祥寺どんぶりを食べた。記憶にある限り、吉祥寺に来て吉祥寺どんぶりを食べなかったことは一回しかない(そのときは中本に行った)。こんなことをしていては太って当然だ。

 

井の頭公園の前にあるドトールで『海辺のカフカ』の続きを読んだ。アイスコーヒーにシロップを入れると恐ろしく不味くなるという教訓を得た。しかし購買のアイスコーヒーよりはマシだ、あれは泥水と変わらない。

 

久々に井の頭公園を散歩するのは楽しかった。身体を動かすのは有益だ、そこには何かしらの実感がある。自分の足で地面を踏みしめることで得られるものも、多分ある。多分。

 

家に帰ってから少しだけ大江健三郎の短編小説を読んだ。とても現代的とは呼べない代物だが、なぜか受容したくなる。言葉では表現し難い安心感があるのだ。

 

ともかくも夏季休暇はこれでまた一つ消費された。

さて、明日は何をしようか?

8/28

僕は何をしているんだろう?塵のように細かい無力感が僕の周りに降り積もっている。息苦しい。まるで両方の肺に綿を詰め込まれたようだ。

夏休みが始まってから一ヶ月が経った。時間は雲が空を漂うように過ぎ去っていった。光陰雲の如し。

さて、僕は何をしたか?本なら読んだ。村上春樹を読んだ。大江健三郎も読んだ。中原中也だって読んだ。カミュもヘッセも読んだ。東京に帰ったらセリーヌを読もう。やれやれ、一体どこの大学生が夏休みにセリーヌを読むというんだ?ダライ・ラマに誓ってもいいが、そんな大学生などまずいない。

ダライ・ラマに誓って」

「何だって?」

「何でもない」

何でもないのだ。

 

結局、現実逃避でしかないのだろう。大人が仕事をしなければならないのと同様に、大学生は勉強をしなければならない。理学部物理学科に進学したからには物の理を学ばなければならない。しかし、物の理を知って何になるというのだ?僕はそんなことよりも上手く生きていく方法を知りたい。朝、また一日が始まるという不安に脅かされたとき、昼、虚空を見つめる他にすることが見つからないとき、夜、どうしようもない孤独に苛まれたとき、どうすればいいのだ?知らない人に話しかけられたとき、どんな顔をすればいいのだ?

女神は出口のない部屋を訪れない。

8/27

日記を書いていくことにした。新しくやり直すのだ。何を?全てを。

 

昨日から帰省している。することがない。日記を書くようになるくらいすることがないのだ。田舎の休暇。日記的生活。

 

母校の周りをオンボロ自転車で走った。部活帰りの女の子が二人いた。田舎の女子中学生。セーラー服、日焼け。観念の具現化。

不思議そうな顔をしながら彼女たちは僕に挨拶した。「こんにちは」

訓練されているのかもしれない。不審な人物を見かけたらまずは挨拶をしましょう。

「こんにちは」僕も挨拶した。

急に老け込んだ気がした。でもそれは仕方のないことなのだ。人は年をとる。時間は流れる。中学生から見れば僕はもういい年をした大人なのだ。

僕は彼女たちから離れた。人と不必要に関わらないこと。大切なことだ。でも必要なときは義務的に、そうしたいときは意志的に、人と関わることになる。そのとき僕は真摯たり得るだろうか?